「好き」と「愛」と「情け」の違いを考えてみた
むかしむかし 私が二十歳くらいの頃
年下の人に「好き」というのと「愛してる」の違いは何ですか?ときかれて
ちょっと答えられなくて
年上の人に同じ質問をしたら
「好き」は会えたら嬉しい。って状態で
「愛している」は会えないとおかしい。って状態
と言われて
なるほど!と思って以来自分もそう思ってきたのです。
しかし 後から「情け」「情がうつる」などという概念が出てきて
これまで思ってきた「愛」というのが実は「情け」だったのでは?と思うようになりました。
それでは「愛」とは何なのか?
漢字を見てると「心」を「受ける」という形に思えます。
「心」を「受ける」のが「愛」ならば「愛」は飲み込むこと「理解」か!
そう思って ああ、そうか 愛って難しいんだなって思いました。
物語や歌などで愛の尊さがガンガン出てくるのは
愛が難しいからかもしれないな、と。
なんか気になる。癖になる。居ないとおかしい。って
自然発生的な慣れ親しみっぽい感じじゃないですか
習慣に対する執着かと思ったりしました。
そう、長い間「執着」こそが「愛」だと思ってたんですが
いろんなお話を見聞きしていくうちに
「愛」は自由でこそ「愛」なのだ。ということと
「情け」というジワ~~と染みてくるような感じを分かってきて
「情け」は自然発生的でそれゆえに意識的に執着しなくても
こびりついてとれない自分の感覚になるんだと
それ故に強く
それ故にありふれているのだと思いました。
「愛」はもっと勇気をもって歩みよったりするもので
自分じゃない物を自分の中に受け入れる。
自覚や覚悟を必要とする。
実はけっこう痛みを伴うのものなのだと
とても人間的な理想に近いことなのだと
だから感動的で歌や物語にキラキラと尊く表現されているんだな、と
「愛」と「情け」混同していたけれど違うんやな、と思いました。
歌や物語において「恋愛もの」と「人情もの」は全然違うのにね(^_^;)
「恋」は
ありゃ~病気です。
不安定な人ほどよく罹る
この世で一番美しい熱病だと思います。
好きな人ができる代わりに熱にやかれて我を失って気が狂う。
熱のさめる頃に「愛」や「情け」に落ち着けば良いですが
好きな人を失くして我に帰って終わる場合も・・・
「恋」の終わりは命が残っていれば良し!としなければならないでしょう。
病気ですから。
「恋」もそんなにいっぱいあるものではなくて
歌や物語でキラキラと尊く表現したくなるほど稀なものだと思います。
人間が劇的に変わってしまうのでドラマチックなのです。
物語や歌の材料にとても美味しいテーマなのです。
面白いったらありゃしない~~♪
日常的にその辺にあるものだと盛り上がらないっしょ。
「人情もの」が面白くなるのって困難な状況のお話じゃないでしょうか?
ど貧乏とか。旅をして野宿しまくりとか。動乱の時代とか。
フツーの何不自由ない女子高生にドラマが起きるとしたら
新しい出会いによる突然のラブ! かな?
なんとなく幼馴染が気になって~~とか言うんだったら
久々な再開とか 眼鏡を外したらカッコよくなったとか
サッカー部に入ったら輝きだしたとかとか
変化 変化 面白いのは「変化」ですね。
「好き」は「恋愛」や「情け」すべての始まりの感覚かもしれない。